李禹煥の言葉(著作より)

【余白の芸術】

アートは、詩であり批評であり
そして超越的なものである。

そのためには二つの道がある。
一つ目は、自分の内面的なイメージを現実化する道である。
二つ目は、自分の内面的な考えと外部の現実とを組み合わせる道である。
三つ目は、日常の現実をそのまま再生産する道だが、そこには暗示も飛躍もないので、私はそれをアートとはみない。

私の選んだのは二つ目の、内部と外部が出会う道である。

そこでは私のつくる部分を限定し、作らない部分を受け入れて、お互いに浸透したり拒絶したりするダイナミックな関係を作ることが重要なのだ。
この関係作用によって、詩的で批評的でそして超越的な空間が開かれることを望む。

私はこれを余白の芸術と呼ぶ。

ところで私は、いろいろな画家の絵面の中に見られるような、
ただ空いている空間を余白とは感じない。
そこには何かのリアリティが欠けているからだ。
例えば、太鼓を打てば、周りの空間に響きわたる。
太鼓を含めてこのバイブレーションの空間を余白という。

この原理と同じく、高度なテクニックによる部分的な筆のタッチで、
白いカンバスの空間がバイブレーションを起こす時、人はそこにリアリティのある絵画性を見るのだ。
そしてさらにフレームのないタブローは、壁とも連携を保ち、絵画性の余韻は周りの空間に広がる。

この傾向は、彫刻において、一層鮮明である。
例えば、自然石やニュートラルな鉄板を組み合わせて空間に強いアクセントを与えると、作品自体というより、辺りまで空気が密度を持ち、そこの場所が開かれた世界として鮮やかに見えてくる。

だから描いた部分と描かない部分、作るものと作らないもの、内部と外部が、刺激的な関係で作用し響きわたる時、その空間に詩か批評そして超越的性を感じることが出来る。

芸術作品における余白とは、
自己と他者との出会いによって開く出来事の空間を指すのである。

(横浜美術館2005年李禹煥「余白の芸術」より)






人間を含めた大きな外界との連関の中で、自己を見ようとすることが、私の歴史意識であり世界観である。
世界は私を越えてあり、不透明なものである。
私の取った方向は、この不透明な他者を前にする時、自己が絶えず濁ったり摝かされたりしながら他者として生まれ変わるということだ。
これは制作がひとつの乗り越えであり、飛躍することを示す。
だから作品は、自己と他者が相互媒介を行う飛躍の場でなければいけない。
作品は、外界と内面の刺激的な出会いの場所でありたい。
モダニズムに見られるような、自己の再現化である閉じた完結体を作ることではなく、自己と他との関係化による開かれた場所をアレンジメントすることが私の仕事である。

(横浜美術館2005年李禹煥「余白の芸術・補」より)

超越を夢見ながら生きるのが人間であろう。
それゆえ芸術表現は、反省と飛躍を暗示するものでありたい。

人間が内と外の接点である身体的存在であるように、作品もまた自己と他者を媒介し高揚させる生きた中間項でなくてはならない

(横浜美術館2005年 李禹煥「余白の芸術」より)

私の作品は単純でありかつ複雑である。

作品の素材の選択や構成や制作行為を最小限のものに止めるという意味で厳しく自己を限定しており、無規定な素材をそのまま用いたり周りの空間を受け入れるという意味で複合的でややこしい。

つまり自己を最小限に限定することによって最大限に世界と関わりたいのだ。

(李禹煥 余白の芸術より)

テクニックの上で、1本の線をまっすぐ引くことはそれほど難しいことではない。ちょっとした才能と器用さがあれば、まるで定規を当てたような直線を引くことができる。しかしそんなものから心を打たれることは少ない。本当のまっすぐな線というものは、細かく検証すればクネクネしていても、不思議にピンと張りがあり気魄に充ちて、血が通っているように見えるものだ。そしてそれがさらに生きた線へと浄化されたものであるときは、俗臭を脱し人間離れして神気を帯びて見えるものだ。このように気韻生動する次元の高い線を生み出すことは、まさにその人の生きざまに関わる事柄であり、ながい修養と修練の積重ねなしには不可能に近いことである。
線に限らず、点を打ち面を塗ることであっても、作品が概念や形式の顕在化に終らず、生きたシステムとして働く世界となるためには、それらが、以上のような生命感あふれる一筆一画によるものでなければなるまい

(美術手帖1977年5月号より)

僕の作品はあまりにも抑制が効きすぎていて、少しのことしか表現していない。その表現しない部分を受け入れ、自分のタッチする部分を極端に減らす。自己表現としてではなくて、自分を抑制して、ほんの僅かな要素が周りと大きな響き合いを起こすということ、それが大きな世界と渡り合えるのだという考えなのです

(美術手帖2011年3月号より)

わたしは問題を解くために作品を作るのではない。つくることは、まず問いや答えから自由な行為でありたい

(美術手帖1977年5月号より)

一枚の小さな絵であっても、深い探究心の産物であることはもちろん、何千頁の小説や論文以上の真理を表現できる、しかもより高度に単純化された表現で人間の魂を揺さぶることだって不可能ではないかもしれない

(美術手帖1983年3月号より)




余白とは空白のことではなく、行為と物と空間が鮮やかに響き渡る開かれた場の力だ。

それは作ることと
作らざるものが
せめぎ合い、変化と暗示に富む一種の矛盾の世界といえる。

だから余白は
対象物や言葉を越えて人を沈黙に導き無限を呼吸させる 

(横浜美術館2005年李禹煥「余白の芸術・補」より)




芸術家は、存在の番人、出会者という意味で、本質的に詩人でなくてはならない。
言い換えれば芸術家-作家とは、どこかに特別存在する者でなしに、それは端的にいって詩的瞬間の経験を基により深くじかに出会いの世界を知覚しつづけようとする者であり、世界の言葉の発見者たろうとする者である

(李禹煥2016年「出会いを求めて」内「存在と無を越えて」より)




いかに格調高く活きた画面にするか、何十万の点を打ち何千本の線を引いても、いまだ作画の仕事は至難の業である。
(一部略)
堅からず柔やかからず、ぴんと張りのあるなかにも、リズムや抑揚があって、まさしく生気に充ちた至高の点であり線であってほしいと祈るばかりである。

現れたところあれば消えたところあり、動あれば静あり、濃いところあれば薄いところあって、まさしく陰陽の調和した気韻生動の画面であってこそ、絵の絵たる存在理由をもつのである。

とりもなさず絵をかく仕事は、わたし自身の修行練磨の道であり、ひたすらなにものかを見極めようとする凝視の時間以外なにものでもない

(美術手帖1980年4月増刊号より)

私の制作は、空間や素材との、節度ある関わり-行為で行われる。

これは私の考え、私の行為のオールマイティで作品が出来上がるのではなく、私と世界が対話する中で、それが生まれるという立場を表している。

世界は私のレベルに準じて反応する。


(私の制作の立場-両義の表現より)


絵画にせよ彫刻にせよ、自己のエゴで全てが決定される作品は、閉じた意味の塊になりやすく、生きた感じが出にくい。

制作において、自己を限定し外部を受け入れる開かれた関係性の働きは、作家にさまざまな出会いの経験をもたらし、作家を大きく越えた作品を生み出すことができる。


(私の制作の立場-両義の表現より)

私の仕事は私の考えから出発するとはいえ、徹底して身体的な営みによるところが大きい。

私が身体に注目するのは、その存在の特異性と得体の知れない媒介性にある。

身体は決して私に限るものではない。それは私に属しつつ世界に属し、両側に跨がる関係的な存在なのだ。

だからこそ身体の働きは、私を外と関わらせ未知に通じ私以外の世界と連絡させる。

私の絵が、内的であるのと同時に外的でもある両義性をもつのは、まさに身体の媒介によって育まれたものだからだ。

身体がひとりでに事を起こす事はないが、といって命令を全うすることには不向きで、私と世界が照応する時、身体はその媒介性を発揮する。

キャンバスの他もろもろの素材や道具の感触は、身体を目覚めさせる。
そして考えや感覚を高めるほどに、身体も研ぎ澄まされる。

従って制作行為がリズムに乗って運ばれる時の私は、ほとんど高度な身体そのものである。

これは私であって私でない何者かであり、これによって行われる行為が良い作品を生む。

だから私の制作は、人に手や機械に頼ること少なく、素材や道具との密な交流の上に、絶え間ない身体の訓練による、極度に抑制され浄化された行為になるほかないのである。


(開かれる絵画-両義の表現より)